ワンピースを見ていて、最近 こういった記事も書きましたが、どうも アニメを見たり思想について洞察しようとすると 変な感じといいますか しっくりと来なくて、なにやら 堂々巡りをしているような気がして、ふと アニメと大人のここ20年くらいの関係性を考えていると、ワンピースのスイーツダンスプリンセス風設定の一つの〝こうなった=仮説〟が見えた気がしましたので、いい加減に ちょこっとだけ記しておこうと思います。
ポイントは、〝深さ〟が〝有用性〟としか認識されない。
・大人は経済を回していて偉い→大人のし好物は〝役に立つ〟
・子どもは未熟なので偉くない→子供のし好物は〝役に立たない〟
これが未だに前提となっているため、「インテグラルで深い視点で描かれている作品」が想像だにされず、大人という意味の横文字「アダルト」・・・のようなキーワードから 大人が〝大人のために役に立つ〟ものとして想定するものを「上にのし上げる(引き上げる)」風習が、ずっと続いている…ということではないでしょうか?
もうそろそろ、深さ とアニメの関係が理解されても良いのに、それが脆弱な故に、極端に破壊的で 表面的(認知的)な知性のみの 売るないし注目の手段とするような バランス感覚の崩壊したものが テストを通過します。
「深さ」が「大人の娯楽の有用性」と未だに誤認されている、からです。
「深さ」についてのまともな議論は、見かけません。
特に「アニメ」 は ――(以下 反例「 」)――「子ども用のはずで 偉い大人のための有用性のある、ものではないから いい大人が見るのは おかしい。あるいは 偉い大人のための有用性のある娯楽品(お子様には到底見せられないものが根拠) を作ればアニメでも文句は言われないだろう」――― という風な俗習があるから、「まともな大人やファミリーは 真剣に寄り付かなくなる → アニメに対する深さの議論が一般化しない」。
確かに、アニメで世界を変える・・・と想像する多くの現代人の中身は、稚拙っぽい印象があり、上記の俗習にろ過された下方の残り物(一部の掲示板が喜びそうな表現で言うと「底辺」)の様な印象があります。
さて、最初の言葉を少し変えて「お菓子」としますと
・子どもの食べるお菓子の「味」では物足りないから 大人用のお菓子を作ってくれ
・なぜなら子供より大人が偉いから
コーヒーの視点についても言えますが、深さではなく有用性としての大人の「味=娯楽品」としてお考えいただくと、スイーツないしお菓子の国ないし「アニメ」の この時点での「私達の認識の甘さ=危うさ」がなんとなくでも想像できませんか?
私と まともな制作陣営は「深さ」でアニメを認識していますので、今更・・・なのですが、よく考えると、大多数の視聴者と一部のアニメ関係者・制作者[※以下リンクの関連作品と結びつける意図はない]――は そうではなかったんですよね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%8A%E5%8F%8B%E9%81%94
こういった一般向け方向の記事より、たぶん。 (「大きいお友達」「し好物」等の[様な]言葉で書かれていました。―――2018 04 参照。大まかな参考でお願いします。リンク先の固有名詞[作品など]に私は詳しくない[かもしれない・私が意図したものではない]ことも含めて、この議論に直接含めないでください。)
私と私の主張は、「しっかりとした 深さの尺度でアニメを見れば、今までと違ったよりシンプルな視点で アニメを楽しめる」と言いたいのです。
子どもが食べられない 大人のためだけの「アニメ=スイーツ」は、そもそも 子どもと同じ心身を基本にしている私達にも有益ではないという明白な理由で、「子どもより上の深さでもなければ 基本的に健全なものでもない」ということです。 (手頃な例だと、自然に料理に使っている「みりん」は良いわけです。)
音楽や一昔前から共通の認識としての映画などは、社会通念上の「適用範囲」が狭い(会社や世間で噂になるほどの発達上デリケートな都合が生じない)ので、「オタク」のような問題も生まれにくいです。 アイドルは 「オタク」・・・側に付いた・・・点より、やはりこれからは「深さ」を理解する、「有用性」と取り違えないこと、に本気で取り組まないと 文化をやがては維持できなくなるんじゃないかな、と思います。 (先例と言える、今の「アニメ」の大人・社会との距離とその違和感を単純に見てほしいです。)
私のブログの中で 「インテグラルの言葉では書かれていないけれど、ポストモダン(AQAL尺度での 深さ6)のスピリチュアリティの発達ラインを健全に強調することに成功したと思われる(お気に入り)作品」が解説されていますが、より健全な「深さ」と、不健全な方の「有用性」の両陣営に広域な影響を与えることから、「スピリチュアリティのライン」と「深さ」を、見ることでは 素直に学びにくくなっていることが、残念です。
まず、この「ポストモダン(多元的相対主義)」の「スピリチュアリティの発達ライン(の深さ)」とは何か、を知ることから、それがアニメとして子供に翻訳されているので「大人への有用性の偏見から より共通分母の低い高度(浅い深さ)で誤解釈しないように」する必要があります。(深さの理解が欠けた「大人の有用性」で見れば、オタク向けという偏見でしか見れなくなるのです。)
そして、大多数の一般の方は、この文章にたどり着くのは無理だと思います。 それだけ、一般の人々がアニメを語る(或いは批評する)時の「非合理的な浅い有用性のみの深さの高度から語る」文章・風潮が多すぎるからだと感じます(そういう文章を読んでは流して疲れているということ・それは伝わり難いということ)。
(スピリチュアリティのラインを見る場合、狂信的になる浅い方の一例としては、昔のキリスト教が セクシュアルなイバラ的に表現したようなものが、大概そうですね。――昔に発達心理学がなかったためスピリチュアリティのラインの領域の各種深さを判断できなかったのです。)
映画も音楽もドラマも演劇も舞台全般も、そもそも「思想-視点(深さの尺度)」にできるので、「特別子ども向けやオタク向けに決まっているジャンル」というものが絶対的(原理主義的)に決まっているわけではありません。
(ポストモダンでは、本来 常識のはずです。)
ゆえに、「大人の世界からより正しく描くアニメ→深さをサポートして翻訳もウマイ→大人は有用性ではなく深さで 次世代の子どもたちに浸透するメリットをありありと実感して見る」という態度が正しく、大人はアニメを「大人の為だけの有用性の娯楽品」として見る堕落をやめれば、「オタク」とか その辺の余計な面倒を言われなくなる(生じてこなくなる)ということです。
つまり、子どもに負けず、本気でアニメにハマりたければ、「深さ」つまり、「子どもの基本的世界(モダンまで)+大人の無限の可能性のある世界(ポストモダンから) の両方をちゃんとサポート」すればいい、ということで、間違って卒業した人数知れずですが、「スピリチュアリティのライン」と「ポストモダンの深さ」は、学術的にも体感的にも、大人が学べないといけない時代です。
今のアニメは、子ども達そして私たちに 「世界が幸せになって つながる」洞察や方法を伝える、私達は そういった出来事・世界に興味・関心を持って関わるための「勇気を持つ」―――それを助けるアニメこそが、真に意味のある正しいものだと思います。
(そういったアニメは、子どもと大人が世界観の彩に関わらず多元的に ともに意義を持てるのです。)
2018年04月08日
キッズと私たちが「明るく いっしょに」 多元的に 同じアニメを見る「未来」♪
posted by アニメとど at 15:01| 【いろいろ☆とくしゅ~♢】
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