97年の映画なんですよね。
当時性も含め、まだ、アニメは〝テレビ番組系〟と見られていた時代(wikipediaなど情報検索できる PC一般普及以前)です。
現在は、アニオタとか、アニ・・・とか、なんだか
〝映画とドラマ基本の人〟は〝アニメ見てはいけないの?〟って空気になっていて
〝アニメとしての差異化〟はできたけど、やっぱり分離してない??ってところ。
ちょっと前に大きく深まった〝漫画の実写〟
最近また主流になり、さらに深まりつつある〝他メディア作家(や陣営)のアニメプロデュース〟
あたりまえですが、アニメを知らないと、おもしろくならないし
それ以前も以後も、〝緩やかで余地のある相性〟がとても大切で
上記2点を(統合のチャンスの芽生えと)踏まえながら、〝アニメをアニメに任せ、アニメを総合的な作品(映画やドラマや基盤の常識・哲学など)と離しすぎないようにする〟
必要があります。
マズいのは、アニメ以外知らない(解釈が独占的な)感じの定立が〝アニメらしい〟などという、10年20年先の常識として まず通用しないでしょうよ(^^♪ 風なことが、流れとして見過ごされているのでは?ということ。
私は、〝アニメって、見捨てられてない?〟と、逆に心配する風潮です。
もちろん、なるべく普遍的ないし、私のよく言う〝統合的リンキング(志向的一般化としての解釈と咀嚼出力&インテグリティや健全度)〟をサポートすればいいということで、映画やドラマやその他もろもろを限界までかじらなければならないというような〝深さなき広さ〟のことを言っているわけではありません。(し、自分で接した方がいい範囲を理解する方法を編み出す必要もあります。)
☆☆☆
今回、コナンの劇場版第一作を見て思ったことは
いい意味で、緊張感があって面白かった。 です。
何回か見ているはずですが
余計なことをしていないですね。
最近は、〝破壊的な描写をする方がおもしろい〟〝いやいや、破壊的なものは叩かれるからよそう〟とか
ある意味、両端の極論(の影の部分)が、末期まで来ていますが
まず、〝破壊的なものを正義にしていいわけないだろう(笑)〟そして
〝構造主義と同じく、書き手(例えば道徳L/6)は ある実際の事件の犯人(道徳L/3)を経験しているわけではない、法則が基本になる〟ということ!! (太字は一例)
最近は、先ほどの〝主体構造-解釈がザル〟な例と〝成熟した構造主義としての描写〟の例が、未分化ではないのか? と思わせる〝言い訳〟に出くわすことが多い気がします。(視聴者-文化 含む)
電車の例は、多数に仕掛けるのが困難だろうことから、安全な例えの例と思われますが
決して、妥協した〝お遊びとしての演出〟ではありませんでしたね。
〝これにでくわしたら、どうしよう?〟と考えさせられるところは、ドキュメンタリー番組と同じで
少年探偵団たちが、大人よりも虎視眈々としていたところが、すごいです。
また、この映画は、時代が〝破壊性がイイ(娯楽だ)〟を(誤-)定立してしまうと、もはやそう見られてしまうということも、付けくわえねばなりません。
要は、解釈を狭く独占的にしてしまうと、つらいのです。
(何でもかんでも多様性だけ容認する場合も、上記を加速する結果になります。自然なアイデアが無いにもかかわらず企画だけで進める飽和状態になりがちなのが、今かもしれませんね。――――視聴者目線で。これは統合的リンキングと反対です。)
最初の例では、〝コナン失踪事件〟は、〝他陣営(作家ないし芸術家)との統合的リンキング〟と言えるでしょう。
長く続くことがどうか?ではなく 主要回(原作・映画など)中心に自己責任で見ればいい
〝文化として(リベラルなテストを通過して)当たり前になっていること〟=〝お約束&別に誰も傷つけない〟というだけで
コナンの事件のジンクス(笑)等を〝破壊の定立の言い訳(1)〟にする意味など、ないでしょう(^^♪
もちろん、人間色々ですが、今回のコナン第一作は
〝破壊性をうまく縛りながら、妥協しない演出をするには どうすればいいのか?〟の
20年の時を超えた意味での〝ヒントになる重要な例〟と、最近の風潮を見て思いました。強く(笑)
これは、当時の〝私たちのアニメ文化(Q/2)〟のいいところとして、見てほしいです。
(書き手や声優のキャスト[作品間にも共通]よりも、時代の流れそのものの主張-定立である点です。)
(毎回、誰が…ではなく、流れで捉えた方がいいのです。矮小化防止の面でも!)
長くなりましたが、なんか書きましたので(笑)
載せます。 ←この情報いらんって??
特にコナンでなくとも書いたと思いますが、いい映画でしたね♪
2016年04月09日
時計じかけの摩天楼 演出の配慮と多面性 ☆現代アニメ一般論☆
posted by アニメとど at 22:02| 【いろいろ☆とくしゅ~♢】
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